Friday, February 3, 2012

新憲法とは改正か革命か



新憲法
IUC Center 発表 2/3/12

今日は新憲法、特に憲法により確立された象徴天皇制について発表させていただきたいと思います。

順番はまず、新憲法の年月、次に、その憲法の傾向、特に天皇志向より、むしろ国民志向という傾向の重要性を解釈し、そして天皇制のかわりに国家を象徴する役割についてお話しするつもりです。

憲法の成立年月はマッカーサーのGHQの機構によって1946昭和21113に新憲法が公布され1947昭和2253に施行されました。Wikiさま大教授によると、そこから今まで、新憲法が一度も改正されていないらしい。改正できるような条件が非常にかたくて、きびしいので、「硬性」憲法とよばれてきました。いずれにしても、終戦直後、日本の文民の政治家などは新しい憲法が欲しくなかったそうです。なぜかというとおそらく新憲法が革命的な傾向があったせいだからだと思います。

では、次に、その基本的な傾向に会話を移します。その憲法の傾向は天皇志向より、むしろ国民志向という傾向です。要するに明治憲法は国民が天皇と国家に仕えることを成立させました。一方、新憲法は天皇と政府などが国民にサービスしてあげることを確立させました。要するに戦前、戦中国民は国家のための一種の所有物でしたが、戦後は政府などが国民のための制度になりました。

日本の文脈でその憲法の重要性や独自性を解釈していきたいと思いますが、これに専門ではないので間違えたら皆さん、理解してくださると本当にありがたいです。

日本国憲法は一般的に新憲法とよばれますが、新憲法という言葉を分けてみると「新」とはやはり新しいの「新」で、憲法というのは基本的な条件を定めた根本的な法律です。あるいはその法律が書かれた文書です。だから、憲法の概念は絶対主義でなく、むしろ定められた法によって民主主義的な国家のあり方が成り立つということです。

明治維新以降、もう憲法が作成されたのでこの戦後の憲法は「新」と呼ばれます。そうだとすれば、新憲法が大日本帝国憲法を改正したものだといってもよい。しかし、 戦後、その帝国主義的な憲法の基礎が転換されたし、世界中で唯一の要素、例えば第9条が含まれたので、帝国憲法から新憲法への転換は新憲法が根本的に新しい憲法となったと、言わないわけにはいかないと思います。

その転換というのは古代から、いわゆる「日本人」が厳しい階級制の下、天皇をはじめとした統治権を持っている指導層などを尊敬したり、仕えたりした生活のことでした。明治時代にこのような社会の秩序、国のあり方や、政府のあり方などが法律的に成立しました。いわゆる天皇制というのは一種の西欧の君主制だといってもよい。特に西欧の王様は天皇にあたります。

ですが、戦後、背後に絶対主義があった天皇制は民主主義的な象徴天皇制に変わりました。つまり、その硬い上下関係のヒエラルキーがある日本は民主主義の平等原理に従って、 人間の尊厳や人権を重視して、統治される社会に転換しました。特に新憲法が成立すると日本国のあり方、または政府のあり方が立憲君主制となりました。立憲君主制というのは憲法の重要な政治原理に従って行われる一種の君主制です。日本では立憲君主制は原則として天皇の権力が議会や国会などに制限を受けるようになっている制度を意味します。新憲法によると天皇は一番高い地位が受けられるのに、その地位は日本の「象徴」といわれます。つまり、天皇は権力があまりありませんが、天皇の影響は象徴としてソフトパワーから構成されています。天皇の役割は象徴として、法律や裁判官を承認したり、公立な儀式でスピーチしたりできる役割です。つまり、ハードパワーが全然ありません。にもかかわらず、国家のイメージとして影響を与えることができます。

いうまでもなく、民主主義的な憲法に従って、天皇主権より、国民主権が重視されてきました。それは革命的な変化だと思います。新憲法はすべての力を持っていた天皇が中心だとされた帝国主義的な憲法を逆にしました。近代憲法では個人の尊厳や国民主権が中心として安置されました。

それでは以上です。多くの話題がまだ残っていますので、質問やコメントなどがあったら、お願いします。

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